お侍様 小劇場

   “声を聞かせて” (お侍 番外編 53)
 


        


 初夏どころか、真夏日となったところもあったほどの上天気で始まった皐月だったが、爽やかなお日和もそうそういつまでも続くものじゃあない。
『五風十雨とも言いますから、晴れてばかりでも困るというものですよ。』
 とはいうけれど、それにしたって限度があろうと誰もが思ったのは。北海道での一幕で。現地でのやっとの桜の季節に、それへの無情、結構な降りようでの積雪があったこと。五月を前に雪とはと、呆れておいでのインタビューは何とも印象的だった。それ以外にも、春先からこっち、何とも極端な寒暖の坂を行ったり来たりし続けの気候であり、これでは新型のインフルどころか、普通の風邪だってなかなか収まらぬのも無理ありませんねと。夜なべが祟って微熱を出してしまったという隣人へのお見舞い、キャベツたっぷりのアサリのシチュー、クラムチャウダーを作って持って行ったその帰り。陽が落ちると地熱もするすると引いてっての、仄かにひんやりする風が吹いたのへ、撫で肩をふるると竦めて見せていた七郎次ではあったのだけれども……。


  「………あ。」


 それから何日か空けての、とある昼下がりのキッチンにて。カシャンという少々物騒な裂音がし、それへとかぶさったのが七郎次の戸惑うような声。反射的に口を衝いて出たというような勢いはなく、どちらかと言えば呆然としているような小さなお声であり。そんな彼が見下ろす先では、流し台の端、調理台の部分へと、転がしでもしたのか、縁の薄いグラスが倒れ込んで大きく割れている。しまったしまったと、拾い上げる手が伸びかけたのを、だが、横から伸びた別な手が、手首のところで掴み取っていて。

 「…久蔵殿?」

 何か? と問うような、どこか反応の薄い様子の七郎次へ、軽やかな金の綿毛を揺するようにし、ふるふるとかぶりを振って見せ。そうやって制した先の 割れたグラスへは、自分が手を伸ばす彼であり。
「…あ、いえ。私が片付けます。」
 そんな雑事、しかも自分がしでかした失態なのにと、改めての手を出しかかる七郎次へは、

 「そんなでは、怪我をする。」
 「あ…。」

 相変わらずに言葉の少ない彼からの言いようは、決して冷たいあしらいのそれじゃあない。グラスを割るなんてこと自体が、七郎次にはありえないほど集中を欠いている証拠だからと。そんな状態でこんな危ないものを触ってはダメだと、そうと言ってる次男坊であり。

 「…はい。すみません。」

 理屈は判る、それに…確かにぼんやりしてもいる。自覚するほどとは重症で、だが、風邪を拾ったりしたせいではないのも また承知。紙袋を探して来、そこへと手際よくグラスの破片を収めてゆく久蔵の様子を、何とはなしに眺めやり、

 「…。」

 他の片付けも終わっているしと、所在なさげにいた七郎次が。久蔵の細いが芯の通った背条から、ついと視線を外して見やったものはといやあ。家族の予定を書き込んだ、壁掛けのカレンダーだ。いつの間にか、日に何度も眺めるくせがついており。とある日からを数えての、ひい・ふう・みぃ。今日で十四日目かと、朝も確かめたことをまたも数えて。まだ半月にもならぬじゃないかと、その口許を小さく微笑う形に歪めたものの。青い眸も白い頬も、ちっとも微笑ってなんかいなくって。


  勘兵衛が“務め”に出て、14日が経つ。


 このくらいの長さの務めは珍しいことじゃあない。その間、連絡が一切ないのもまた、今に始まったことではないのだけれど。どうしてだろか、こたびは妙に心が落ち着かない七郎次であるようで。行き先が国内なのか海外なのかも知らされてはなくて、詮索はご法度だってのも重々知っている。ただ…割り切りをつけられない想いを抱いたまま、彼方と此方へ別れ別れになったからだろか。妙に気が重いままであり、何をしていても落ち着けない。それどころか、日を追うにつれ集中力までもが薄れる始末。そうまで何かしらにわだかまりを持ったままな自分なのが、ともすりゃ不甲斐ないやら焦れったいやらで。

 “感情的になれる資格なんて、ありはしないのに…。”

 同じ話題で気まずくなっても、時間を置いての触れずにおくことで、これまでは何とはなしに取り繕えていたものが。こたびはそんな暇間もないまま、勘兵衛が発っていってしまったものだから。まさかとは思うが気にしておいでではないだろか、そんな気がしてのつい、悔やまれてしょうがなく。後顧に憂いのないまま、気持ちよく発っていってほしかったのに、喧嘩別れしてしまったそのままだなんて。まさかもしや、このまま逢えぬお人になりはせぬか。そんな不吉なことまで思うては、何を馬鹿なとかぶりを振るのの繰り返しになっている。そして、そんなぼんやりっぷりから、とうとうグラスを取り落とすというような、つまらぬ失態しでかしたとは。

 「……。」

 雨が近いのか、強い風が朝から時おり吹きつけており。窓の外では庭の立ち木が風にしなって、萌え初めの青葉が、さざ波のような驟雨のような音を立てる。ざわめいているのは空模様だけだろか。誰にも聞こえぬようにと、それは慎重に落とした溜息が、だがその分だけ、いやに重々しいそれに聞こえた。皐月の週末、昼下がりである。





    ◇◇◇



 しっとりした重みとさらさらした手触りが見事な金の髪や、そこに青空を封じたような、澄み渡っての清かに綺麗な双眸、奥底へと光を沈めたような深みある白さが印象的な白い肌に、優しげな面差しの細おもてなどなど。少しばかり整っているらしいその美貌をこそ、誉めそやされる七郎次ではあるけれど。だからと言って、風貌も人性も、なよやかなという意味合いでの嫋やかで大人しい存在じゃあ決してない。槍と体術では某流派の免許を皆伝しており、体格もしっかりしたものだし、力仕事にだって骨惜しみせずに動き回るし。車の運転もきびきびこなし、動作にも切れがあって颯爽としており。どんな行事への手配差配もまごつくことなく構築出来て、関わる人らへの指示や説明も手際がいい。一般的な物差しで、十分に男らしくも凛々しい青年の範疇にあたろう人物で、実際、女性が注目してくるのも、そのすっきりとした男ぶりに惹かれてだ。

  ただし、

 世話焼きモードに入ってしまうと、どうしても“母親属性”な部分がちらほらと。繊細でまめで面倒見がよく、人当たりの柔らかさはただただ暖かくまろやかで。そんな性分も、人へと尽くす立場にあって培われたもの。どこにも無理はなくの自然に滲み出す性であり、頼られたり あてにされることこそが至福。寂しい子供時代を送った反動だろうか、あなたが必要なのだと、そうと求められることが嬉しくてしようがない彼で。

  ただ、

 とあることへは、どうあっても譲れない姿勢を取ってしまう。それだって“求め”に違いないのに、いつの間にか素直に受け止められなくなっている。だって、あまりに滸がましいこと。思い出したように蒸し返されたそっちの話題、そこから発したちょっとした行き違いが、そういえば中途半端なままだったので。それで、落ち着けない七郎次なのだろうか。

 『まだ怒っておるのか?』
 『…いえ。』

 どこぞかの女性へ、わざわざ心乱さすような悪戯として、この自分を情婦であるかのように装わせ、見せびらかすような真似を敢えてなさった勘兵衛様で。

 『酷いことをする奴を不快に思うのは、間違ってはいないと思うのだが。』
 『……。』

 こちらが答えに窮したのへと気づいてか、

 『すまぬな。これではまるで試しているような言いようだったの。』
 『そんなことは…。』

 低められたお声は優しく甘い。困らせたいのではないのだと、あやすように抱きしめて下さったのに。それへと素直に安んじることが出来なくて、ついのこととて ついてしまった吐息の重さへも、きっと御主は気づかれたに違いない。頼もしい腕で、広くて深い懐ろに しっかと抱かれると、昔はその暖かさへと ようよう安心出来たのに。今では…この精悍なお人にうっかり溺れやしないか、この身あずけての凭れてしまわぬか、それらが怖くて怖くてたまらない。


  目が眩むほどに頼もしく、酷なくらいにやさしいお人。
  だのにそれが、痛くてたまらぬ時がある。
  素直になれない自分の傲慢さを晒されるようで、
  それを御主のせいにしたくはないと、
  洩らす吐息は罪なのか。


  “…だって、しょうがないじゃないか。”


 御主と自分の間には、主従という越えてはならぬ一線があるのだ。自分はあくまでも陰にいなくてはならないし、あんな素晴らしい御方へ、手を尽くすことでお役に立てるとは、何と嬉しいご褒美か。なのに時々勘兵衛様は、それを判って下さらぬ。いつかどこにも非のない奥方を娶り、可愛らしくも聡明なややを持ち、立派な宗主、惣領様になってくださることが、私にとっても至福であるのに…。



  「………。」


 リビングへと下がらせた七郎次が、窓辺に近い床へと座り込み、ぼんやりとその手の中へ見下ろしているもの。サイドボードの上にあった、卓上のカレンダーだと気がついて。こちらでは久蔵が微妙に口許を震わせる。まるで、親から置いてかれての途方に暮れてる童子のように、何とも小さく見える背中ではないかと思ったが。今の自分では、くるみ込んでやるにも腕の長さが…心の尋が ちと足らぬこと、重々承知しておいで。とはいえ、大好きな人がああまで意気消沈しているところは見ておれぬ。大体、以前から口を酸っぱくして(?)言っていたのに。務めの概要を明かせぬはしようがないにしても、居残りとなるシチが案じぬよう寂しがらぬよう、何でもいいから手を尽くせと。宿題ではないが、気散じになるようなことを言い置いてゆくとか、前以て仕掛けたものでもいいから、定期的に届くメールなど、細工のしようはいくらでもあろうにと。勘兵衛へは機会があるごと言っておいたのに。どうせあの大雑把な男のことだから、わざわざ言わずともシチには通じようと思ってのずぼらをしているに違いない。勘兵衛が見ていないところで、こんな風にこっそりと…撫で肩をますますのことしおらせて、力を落としての消沈しているんだなんてこと、きっと知らないままなのだ。他へはどうでもいいから、大切な相手へくらいは気を遣えばいいのになんて。自分では埋められぬこと、外野の歯痒さを抱えたままで、じりじりと見やっているしか出来ぬのだけれど。

  ただ

 こたびの務めには、この数日ほど、少々引っ掛かってもいた次男坊であり。リビングの入り口、日頃だったならそんなところに突っ立ったままな久蔵だと、すぐにも気づいてのこと、

 『どうしましたか、こっちへいらっしゃい』

 そんな声を掛けてくれる筈のお人が、相変わらずにぼんやりしておいでなの。こちらも付き合うように眺めていたのだが、
「…っ。」
 ダークインディゴのズボンのポケット、携帯が唐突なタイミングで震え出す。ハッとすると取り出して、わざわざ廊下へ出ての操作をこなす。メールの着信だったのだけれど、そこに綴られてあった数行が、

 「…………。」

 久蔵には難解な…なかなか飲み込めない文言ででもあったのか。それとも、そこから滲み出す、別の言葉でもあったものだろか。しばらくほど じっと眺めていてののち、別な操作をこなしての、パタリと蓋とじ、さあと振り返ったのが。そのまま消え入ってしまいそうになっている七郎次のいるところ。つかつかと歩み寄った彼にはさすがに気づいたおっ母様が、

 「? どしました?」

 普段のお顔とどこがどう違うものか。すぐの傍らまでへと歩み寄って来て、ラグへと座り込む自分を見下ろす久蔵が、何かしら言いたいらしいと察してのこと。お顔を上げてそのままかくりと、首を傾げた七郎次だったのだが、

 「…出掛ける。」
 「あ、はいっ。」

 そうですか、じゃあお支度をしましょうね。これもまたいつもの反射、お弁当は要りますか? ああいや、こんな時間だからそれはないですか。遠いようなら車を出しましょうか? などと、よいせと立ち上がりつつ訊いてくる彼の腕を、薄手のパーカーシャツごと掴み取った久蔵、

 「シチもだ。」
 「はい?」

 相変わらずの端的な言いよう。だがだが、こればっかりは意味合いが見えない。実は今日も午前にあった、剣道部の練習さえ。明日のへ出るからいいなどと言って、一緒にお留守番へ付き合ってくれている久蔵なのに。それがいきなりどうしたことかと、戸惑うように見つめた先で、既にその身を返しての玄関へと進みかかっていた次男坊。足が進まぬらしい七郎次の重みを、ぐいとちょっぴり乱暴に引っ張ると、

 「島田に逢わせてやるから、ついて来い。」
 「………っ☆」

 そんなとんでもないことを、唐突に口にした彼だった。





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  *随分と前に、Y様からヒントを頂いたお話です。
   上手くまとまればいんですが…。(ドキドキドキ…)


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